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| 7 | バイク屋時代1 | ハーレー |
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「おはようございます。今日も一日頑張りましょう。」
午前9時。朝は、商品の陳列から始まる。店内にぎゅうぎゅう詰めになっている中古や新車のバイクを、店先に並べた。数十台をきれいに整列させるのは、慣れるまで体力が必要だ。その後、一台一台をきれいに拭いた。そして、納車予定になっているバイクの整備に取り掛かる。僕は、主に整備を担当。修理の来店や納車引取りに対応した。また、スタッフに指示しながら、お客様が来店すると接客し、販売も行なった。
店では外車も扱っていたため、BMWの整備研修に横浜へも行った。オイルフィルターの交換からタペット調整まで、外車のエンジンは、特殊工具がないときれいに調整できなかった。主要な外車用工具は、ほとんど取り揃えた。
エンジンがかからないというハーレーの修理をしていた。ハーレーといっても、お馴染みの迫力あるでかいタイプではなく、ロードスターというガソリンタンクの細身のものだった。だから、舐めてかかった。
キックで点火しないときは、よく押し掛けといって、クラッチレバーを握りながらバイクを押して走り、勢いがついたところでクラッチレバーを離すと、エンジンがかかりやすくなる。
僕はスターターのいかれたハーレーを押し掛けした。店に面した国道の側道を走った。すぐにクラッチレバーを離すと、エンジンはかかった。いつもはここで、すぐにバイクに飛び乗るようにしてまたがる。しかしハーレーは勝手が違った。エンジンからくる振動がハンパじゃなかった。ハンドルがブルブルと大きく揺れて、飛び乗るタイミングがつかめない。ハンドルを握る両腕はブルブル振動で震え、重い安全靴には「早く乗れ」とせかされ、心臓の鼓動は「バカ、バカ、バカ」と僕をなじる。ハンドルを放せば、ハーレーは転倒し破損する。子どもの頃、散歩中の飼い猿に追いまわされた悪夢に似ていた。僕は50m以上ハーレーの助走につきあわされ、エイヤッの気合いでようやく飛び乗った。故障個所を確認、調整し、お客様のハーレーは無事に納まった。僕は冷や汗を拭った。
日が暮れると、店頭に並べた数十台のバイクを、一台一台、店内に収納した。午後7時。閉店後、簡単なミーティングを行い、その日の売上を締めた。父は夕方になると、数台のバイクをトラックに積み込み、東京やら県北やらの仲間の店へ配送に出かけた。父の帰りはいつも深夜の2時過ぎだった。そして、翌日朝にはスタッフと同じ時間に店に出た。
家業を手伝うようになったものの、経営に関して僕はまったくの無知だった。
商売は発展継続が前提である。利益獲得のために、仕入れなどの投資を行い、販売で利益を生み出し、そこから経費を差し引いた分を、内部留保と再投資に回す。だから販売会社は、年間販売目標予算から月次目標を割り出し、売上を月次で管理する。こうした商売の前提も、誰から学ぶこともなく、また、自分でも何もわからないまま、ただ父から言われた仕事をやるだけだった。数字に関して尋ねても、「まだ見せるわけにはいかない。」の一言で終わってしまった。経営のすべては、父の勘と判断に委ねられていた。
毎日が慌しく、店は繁盛しているように見えた。客層の半分以上は高校生だった。みんなバイクに憧れた時代だ。人気の中古車は、仕入れるとすぐに売れた。
日曜、祝日も営業した。僕やスタッフは毎週水曜日を休日としていたが、父は開けておけば売れるから、と一人で店を開け1日も休もうとしなかった。
あるとき、父が事故で首をむちうちした。事故の翌日は1日休んでいたものの、次の日からは、首にコルセットを巻いたまま店に出て、いつもと同じようにトラックへのバイクの積み降ろしや、配送を行なっていた。そんな父の姿に「俺はこんなに頑張っているのだから、お前も頑張れ。お前なんて、まだまだだ。」と言われているような圧力を感じた。
僕にとってその圧力は、励ましというよりはストレスだった。同年代の仲のいい友人は、みな土日、祝日は休みで、それを羨ましく思った。これでは友人もできないし、一緒に遊びにも行けなかった。
友達をつくろうと思った。週末に休みをもらい、足利のレクリエーション協会主催のリーダー研修に参加した。また、月刊みにむという地域情報誌の誌上に、レクリエーションサークル結成の呼びかけ記事を掲載した。ちょうど同じ頃、女の子の二人組が同じ内容の記事を出そうとしていた。野村編集長の勧めで、彼女たちと一緒に始めることにした。
午前9時。朝は、商品の陳列から始まる。店内にぎゅうぎゅう詰めになっている中古や新車のバイクを、店先に並べた。数十台をきれいに整列させるのは、慣れるまで体力が必要だ。その後、一台一台をきれいに拭いた。そして、納車予定になっているバイクの整備に取り掛かる。僕は、主に整備を担当。修理の来店や納車引取りに対応した。また、スタッフに指示しながら、お客様が来店すると接客し、販売も行なった。
店では外車も扱っていたため、BMWの整備研修に横浜へも行った。オイルフィルターの交換からタペット調整まで、外車のエンジンは、特殊工具がないときれいに調整できなかった。主要な外車用工具は、ほとんど取り揃えた。
エンジンがかからないというハーレーの修理をしていた。ハーレーといっても、お馴染みの迫力あるでかいタイプではなく、ロードスターというガソリンタンクの細身のものだった。だから、舐めてかかった。
キックで点火しないときは、よく押し掛けといって、クラッチレバーを握りながらバイクを押して走り、勢いがついたところでクラッチレバーを離すと、エンジンがかかりやすくなる。
僕はスターターのいかれたハーレーを押し掛けした。店に面した国道の側道を走った。すぐにクラッチレバーを離すと、エンジンはかかった。いつもはここで、すぐにバイクに飛び乗るようにしてまたがる。しかしハーレーは勝手が違った。エンジンからくる振動がハンパじゃなかった。ハンドルがブルブルと大きく揺れて、飛び乗るタイミングがつかめない。ハンドルを握る両腕はブルブル振動で震え、重い安全靴には「早く乗れ」とせかされ、心臓の鼓動は「バカ、バカ、バカ」と僕をなじる。ハンドルを放せば、ハーレーは転倒し破損する。子どもの頃、散歩中の飼い猿に追いまわされた悪夢に似ていた。僕は50m以上ハーレーの助走につきあわされ、エイヤッの気合いでようやく飛び乗った。故障個所を確認、調整し、お客様のハーレーは無事に納まった。僕は冷や汗を拭った。
日が暮れると、店頭に並べた数十台のバイクを、一台一台、店内に収納した。午後7時。閉店後、簡単なミーティングを行い、その日の売上を締めた。父は夕方になると、数台のバイクをトラックに積み込み、東京やら県北やらの仲間の店へ配送に出かけた。父の帰りはいつも深夜の2時過ぎだった。そして、翌日朝にはスタッフと同じ時間に店に出た。
家業を手伝うようになったものの、経営に関して僕はまったくの無知だった。
商売は発展継続が前提である。利益獲得のために、仕入れなどの投資を行い、販売で利益を生み出し、そこから経費を差し引いた分を、内部留保と再投資に回す。だから販売会社は、年間販売目標予算から月次目標を割り出し、売上を月次で管理する。こうした商売の前提も、誰から学ぶこともなく、また、自分でも何もわからないまま、ただ父から言われた仕事をやるだけだった。数字に関して尋ねても、「まだ見せるわけにはいかない。」の一言で終わってしまった。経営のすべては、父の勘と判断に委ねられていた。
毎日が慌しく、店は繁盛しているように見えた。客層の半分以上は高校生だった。みんなバイクに憧れた時代だ。人気の中古車は、仕入れるとすぐに売れた。
日曜、祝日も営業した。僕やスタッフは毎週水曜日を休日としていたが、父は開けておけば売れるから、と一人で店を開け1日も休もうとしなかった。
あるとき、父が事故で首をむちうちした。事故の翌日は1日休んでいたものの、次の日からは、首にコルセットを巻いたまま店に出て、いつもと同じようにトラックへのバイクの積み降ろしや、配送を行なっていた。そんな父の姿に「俺はこんなに頑張っているのだから、お前も頑張れ。お前なんて、まだまだだ。」と言われているような圧力を感じた。
僕にとってその圧力は、励ましというよりはストレスだった。同年代の仲のいい友人は、みな土日、祝日は休みで、それを羨ましく思った。これでは友人もできないし、一緒に遊びにも行けなかった。
友達をつくろうと思った。週末に休みをもらい、足利のレクリエーション協会主催のリーダー研修に参加した。また、月刊みにむという地域情報誌の誌上に、レクリエーションサークル結成の呼びかけ記事を掲載した。ちょうど同じ頃、女の子の二人組が同じ内容の記事を出そうとしていた。野村編集長の勧めで、彼女たちと一緒に始めることにした。
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