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| 16 | 役者修行5 | 自由 |
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「君は和美に似ている。」
課題を演じる僕を見て、演出の佐藤信氏は言った。和美とは、オンシアター自由劇場の名作「上海バンスキング」の演出で知られる串田和美氏のことだ。佐藤氏は、黒色テント68/71の中心的な劇作家であり演出家である。
「小劇場運動」の創成期より現代演劇の新たな可能性を模索してきた黒色テントは、1968年に「自由劇場」「六月劇場」「発見の会」の三劇団の連合組織である「演劇センター68」として発足。70年には大型の移動式テント劇場で全国移動公演の旅を開始。 71年に組織を一つにして名称を「黒色テント 68/71」と改めた。(劇団HPより引用)
黒色テントは、若手俳優養成のための「赤い教室」というワークショップを、年間のプログラムを構成し各カリキュラムごとに講師を立てて行なっていた。稽古場は練馬区中村。僕が帰る武蔵関駅から西武新宿線で6つめの都立家政駅を降りたところにあった。
集団の雰囲気にも馴染めなかった事務所を離れ、僕は新年度からこの教室に週3回通うようになった。
この日は、「詩を演じる」というカリキュラムで、演出家の佐藤氏が講師だった。まずはじめに、佐藤氏自らが即興の舞踏を自ら演じて見せた。僕らはただ、憧れのまなざしでスマートでインテリな風貌の氏のダンスに見入っていた。
各自の課題発表が始まった。それぞれが覚えてきた詩を、身振り手振りで暗誦しながら表現した。しかし、誰もが今立っているその場所で、立ち尽くす表現でしかなかった。
僕の番になった。僕は大好きなポール・エリュアールの「自由」(安東次男訳 思潮社刊「エリュアール詩集」より)を演じた。
ぼくの生徒の日のノートの上に
ぼくの学校机と樹々の上に
砂の上に 雪の上に
ぼくは書く おまえの名を
(中略)
そしてただ一つの語の力をかりて
ぼくはもう一度人生を始める
ぼくは生まれた おまえを知るために
おまえに名づけるために
自由(リベルテ) と。
僕はこの詩の個々の表現を身振りでなぞるようなことはしなかった。この詩から受け取ったメッセージはただひとつ、自由であること。僕は思いのままに稽古場を駆け巡り、2階に駆け上り、手すりにぶら下がり、飛び回り、跳ねまわりながら、息を切らすことなく、この詩を謳った。
批評会が始まった。生徒の多くは「訳わからない」「何がしたいの」と冷淡だった。ひとりの女性が「愉しそう」と言った。僕は佐藤氏の言葉を待った。
「今、ここにある全ての空間を自由に使っている。素晴らしい。何に縛られること無く、自由に生きるということを体現したんだね。それから、君は串田和美によく似ている。」
僕は赤い教室からたくさんのことを学んでいった。それまで僕は、演劇とは芸術であり、芸術であるからには自己の情熱の発散であると考えていた。しかし、劇作家の山元清多氏はそうではないと講義した。
「演劇は社会に対するメッセージの発信なんだ。自己満足では、けして社会に届かないよ。」
それから数年を経て、僕は広告制作が演劇制作にとてもよく似ていると気づくことになる。
課題を演じる僕を見て、演出の佐藤信氏は言った。和美とは、オンシアター自由劇場の名作「上海バンスキング」の演出で知られる串田和美氏のことだ。佐藤氏は、黒色テント68/71の中心的な劇作家であり演出家である。
「小劇場運動」の創成期より現代演劇の新たな可能性を模索してきた黒色テントは、1968年に「自由劇場」「六月劇場」「発見の会」の三劇団の連合組織である「演劇センター68」として発足。70年には大型の移動式テント劇場で全国移動公演の旅を開始。 71年に組織を一つにして名称を「黒色テント 68/71」と改めた。(劇団HPより引用)
黒色テントは、若手俳優養成のための「赤い教室」というワークショップを、年間のプログラムを構成し各カリキュラムごとに講師を立てて行なっていた。稽古場は練馬区中村。僕が帰る武蔵関駅から西武新宿線で6つめの都立家政駅を降りたところにあった。
集団の雰囲気にも馴染めなかった事務所を離れ、僕は新年度からこの教室に週3回通うようになった。
この日は、「詩を演じる」というカリキュラムで、演出家の佐藤氏が講師だった。まずはじめに、佐藤氏自らが即興の舞踏を自ら演じて見せた。僕らはただ、憧れのまなざしでスマートでインテリな風貌の氏のダンスに見入っていた。
各自の課題発表が始まった。それぞれが覚えてきた詩を、身振り手振りで暗誦しながら表現した。しかし、誰もが今立っているその場所で、立ち尽くす表現でしかなかった。
僕の番になった。僕は大好きなポール・エリュアールの「自由」(安東次男訳 思潮社刊「エリュアール詩集」より)を演じた。
ぼくの生徒の日のノートの上に
ぼくの学校机と樹々の上に
砂の上に 雪の上に
ぼくは書く おまえの名を
(中略)
そしてただ一つの語の力をかりて
ぼくはもう一度人生を始める
ぼくは生まれた おまえを知るために
おまえに名づけるために
自由(リベルテ) と。
僕はこの詩の個々の表現を身振りでなぞるようなことはしなかった。この詩から受け取ったメッセージはただひとつ、自由であること。僕は思いのままに稽古場を駆け巡り、2階に駆け上り、手すりにぶら下がり、飛び回り、跳ねまわりながら、息を切らすことなく、この詩を謳った。
批評会が始まった。生徒の多くは「訳わからない」「何がしたいの」と冷淡だった。ひとりの女性が「愉しそう」と言った。僕は佐藤氏の言葉を待った。
「今、ここにある全ての空間を自由に使っている。素晴らしい。何に縛られること無く、自由に生きるということを体現したんだね。それから、君は串田和美によく似ている。」
僕は赤い教室からたくさんのことを学んでいった。それまで僕は、演劇とは芸術であり、芸術であるからには自己の情熱の発散であると考えていた。しかし、劇作家の山元清多氏はそうではないと講義した。
「演劇は社会に対するメッセージの発信なんだ。自己満足では、けして社会に届かないよ。」
それから数年を経て、僕は広告制作が演劇制作にとてもよく似ていると気づくことになる。
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