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| 17 | 役者修行6 | ニュース |
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黒テントでのワークショップは、僕の生活の中心になっていた。ここで僕は、演劇の創り方の基礎を学び、演劇を語り合う友人を得た。毎日がとても充実し、輝いていた。
「いい顔してるね。」
ときどき上京する洋子も、そんなことを言った。僕は、いつになるかはわからないけれど、きっと芝居で成功して、洋子も喜ばせてあげたいと思った。そしてそれは、きっと実現すると信じた。
仕事も変わった。西武新宿線沿線にあるメッキ工場から、チリ紙交換までやった。
メッキ工場は、ラインを止められないからと、休憩は昼食時間しか与えられなかった。朝の8時30分から、午後の5時30分まで、金ザルを両手に下げて、ズッシリと重い金属部品を、工場内の薬品曹にひたして回った。両肩の筋肉は盛り上がり、贅肉はすっかりそげ落ちた。
時間を自分で管理できることに目を付け、次に選んだチリ紙交換は、ちょっとしたビジネス上の工夫がなされていた。通常、古新聞一締めに対し、トイレットペーパーのロール紙は1本支給される。けれども、僕はボスから、ポケットティッシュ1個とくじ1枚を支給するように指導された。くじはナンバーが記され、定期的に新聞紙上で当たりが発表される。当たりは、旅行券などだったと思う。これによって、交換コストを削減していたわけだ。面白いのは、集荷場に集まる運転手が、みな20代前半の若者だったことだ。彼らはみなモデルのようにハンサムで、聞けば実際にファッション誌のモデルをやっているといった。稼ぎがいいので、チリ紙交換をやっているのだと言う。
夏の作業は結構きつい。集荷が終わると、すぐに売店で2リットル入りのウーロン茶を買い求め、あっという間に飲み干した。
「ここで新しいニュースが入りました。羽田発大阪行き日航ジャンボ機123便の消息が途絶えました。現在、航空自衛隊が…」
真夏の太陽がぎらつく8月12日のことだった。チリ紙交換で巡回しながらラジオを聞いていると、そのニュースは飛び込んできた。歌手の坂本九さんらが遭難した日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故だった。昭和60年のその日、1日中、僕の耳はラジオに釘付けになった。520人死亡、生存者4人の単独機としては世界最大の事故になった。
坂本九さんの歌には思い出があった。バイク屋をやっていたとき、確か鈴木自動車の招待で、友人のマサルと一緒にタイに旅行にいった時の事だ。僕とマサルは、二人で夜の繁華街に繰り出し、現地人ばかりのスナックへ入った。そこには、日本でいうと大衆食堂並の簡素なテーブルとパイプ椅子が無愛想に並び、現地労働者達が酒を飲み交わしていた。当時はまだカラオケはなく、現地人のバンドがいて曲を奏で、歌っていた。
僕らはビールを頼み、現地の雰囲気を楽しんでいると、隣のテーブルの男が声を掛けてきた。「すきやき」と言っていた。僕はなんのことだかよくわからなかったが、バンドは勝手に曲を演奏しはじめ、僕はステージに押し上げられた。
マサルは席で笑って見ていた。曲調から、これは坂本九の「上を向いて歩こう」だとわかり、僕はそれを生演奏に合わせて熱唱した。50人ほどの店内の現地人は手拍子を打ち、店内は異様な盛り上がりを見せた。アンコールまで歌った。楽しい旅の思い出だった。
悲しい事故に僕は衝撃を受けたが、間もなく僕自身にも衝撃的なニュースが訪れた。僕はその自分自身に関する知らせに悩み、考え、そして二人で結論を出した。
「お兄ちゃん頑張ってね。」と香代子は言った。
「もし、またお芝居やることがあったら、きっと呼んでね。必ず観に行くから。」とモテコは言った。
僕は、役者への志を果たせぬまま、関町北の銀嶺荘を後にした。
「いい顔してるね。」
ときどき上京する洋子も、そんなことを言った。僕は、いつになるかはわからないけれど、きっと芝居で成功して、洋子も喜ばせてあげたいと思った。そしてそれは、きっと実現すると信じた。
仕事も変わった。西武新宿線沿線にあるメッキ工場から、チリ紙交換までやった。
メッキ工場は、ラインを止められないからと、休憩は昼食時間しか与えられなかった。朝の8時30分から、午後の5時30分まで、金ザルを両手に下げて、ズッシリと重い金属部品を、工場内の薬品曹にひたして回った。両肩の筋肉は盛り上がり、贅肉はすっかりそげ落ちた。
時間を自分で管理できることに目を付け、次に選んだチリ紙交換は、ちょっとしたビジネス上の工夫がなされていた。通常、古新聞一締めに対し、トイレットペーパーのロール紙は1本支給される。けれども、僕はボスから、ポケットティッシュ1個とくじ1枚を支給するように指導された。くじはナンバーが記され、定期的に新聞紙上で当たりが発表される。当たりは、旅行券などだったと思う。これによって、交換コストを削減していたわけだ。面白いのは、集荷場に集まる運転手が、みな20代前半の若者だったことだ。彼らはみなモデルのようにハンサムで、聞けば実際にファッション誌のモデルをやっているといった。稼ぎがいいので、チリ紙交換をやっているのだと言う。
夏の作業は結構きつい。集荷が終わると、すぐに売店で2リットル入りのウーロン茶を買い求め、あっという間に飲み干した。
「ここで新しいニュースが入りました。羽田発大阪行き日航ジャンボ機123便の消息が途絶えました。現在、航空自衛隊が…」
真夏の太陽がぎらつく8月12日のことだった。チリ紙交換で巡回しながらラジオを聞いていると、そのニュースは飛び込んできた。歌手の坂本九さんらが遭難した日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故だった。昭和60年のその日、1日中、僕の耳はラジオに釘付けになった。520人死亡、生存者4人の単独機としては世界最大の事故になった。
坂本九さんの歌には思い出があった。バイク屋をやっていたとき、確か鈴木自動車の招待で、友人のマサルと一緒にタイに旅行にいった時の事だ。僕とマサルは、二人で夜の繁華街に繰り出し、現地人ばかりのスナックへ入った。そこには、日本でいうと大衆食堂並の簡素なテーブルとパイプ椅子が無愛想に並び、現地労働者達が酒を飲み交わしていた。当時はまだカラオケはなく、現地人のバンドがいて曲を奏で、歌っていた。
僕らはビールを頼み、現地の雰囲気を楽しんでいると、隣のテーブルの男が声を掛けてきた。「すきやき」と言っていた。僕はなんのことだかよくわからなかったが、バンドは勝手に曲を演奏しはじめ、僕はステージに押し上げられた。
マサルは席で笑って見ていた。曲調から、これは坂本九の「上を向いて歩こう」だとわかり、僕はそれを生演奏に合わせて熱唱した。50人ほどの店内の現地人は手拍子を打ち、店内は異様な盛り上がりを見せた。アンコールまで歌った。楽しい旅の思い出だった。
悲しい事故に僕は衝撃を受けたが、間もなく僕自身にも衝撃的なニュースが訪れた。僕はその自分自身に関する知らせに悩み、考え、そして二人で結論を出した。
「お兄ちゃん頑張ってね。」と香代子は言った。
「もし、またお芝居やることがあったら、きっと呼んでね。必ず観に行くから。」とモテコは言った。
僕は、役者への志を果たせぬまま、関町北の銀嶺荘を後にした。
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