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| 12 | 役者修行1 | 自転車営業 |
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目指すは、役者修行まっしぐら! と行きたいところだが、先立つものが必要だった。上京の資金作りのため営業職に就いたものの、いきなり3ヶ月の免許停止だ。
この学習教材営業のビジネスモデルは、2ステップセールスだった。データベースは、高校受験を控える中学2、3年生の住所録。会社から支給されたリストを元に、まずは実力テストによる学力診断を訪販する。これがフロント商品である。5教科で二千円、お手頃価格である。受験者は、答案用紙を本社へ郵送。診断結果が出ると、営業は両親の揃う時間帯でアポをとり、両親と子供の前で分析結果を解説する。しかし、どんな秀才でも、必ず弱い教科はあった。その弱点を指摘すると、親子揃って不安になる。そこで、やる気があるなら、いい勉強方法を紹介する、真剣に聞きますか、とトークする。親の同意を得ることが重要である。そこから、本来の商品である家庭学習用教材一式のプレゼンテーションが始まる。一式18万円。僕は先生になりきった。なかには安達先生に直接教えて欲しいといいだす家もあった。商品の完成度も高く、かなり売れた。
巡回エリアは足利に限らない。だから、免許停止処分がきた時点で、恐縮しながら退職を申し出た。ところが、上司からかえってきたのは、山のような住所録だった。観念して、自転車で営業を続けた。しかし、これがかえってインパクトになった。わざわざ、足利から自転車で駆けつけてくれる先生、と解釈され、どの家でも好意的に迎えられた。
僕は桐生市まで自転車で通った。たまたま初めに訪問した家が占いを商売としており、この店主である父親とウマが合ったのだ。この父親は育成会の役員をしており、紹介を得て、桐生地区で大金星を上げることになった。このときの販売キャンペーンで、全国上位入賞まで果たした。
僕は同僚には、次の賞与を頂いたら上京することを明かしていた。これが失敗だった。上司の耳に入り、真意を問われた。
「僕は、役者をめざすために、東京に行きます。」
その言葉に、上司から失望の色が見てとれた。僕は、賞与月をもって退職した。けれども賞与は、支給されなかった。
いよいよ明日の朝が引越しというので、洋子が手伝いに来てくれた。大した家具があるわけもなく、準備はすぐに終えた。二人とも、二人のこれからについて、話さなかった。いや、話せなかった。何も約束できることなんて、なかったから。
これでもう洋子とはずっとお別れになるのかもしれないと、僕は思っていた。
きっと彼女も同じように思っていたのだと思う。その晩、彼女は自宅に帰ってはくれなかった。
翌朝、叔父から借りた軽トラックにわずかな家財を詰め込み、僕は東京へ向かった。人手がいるでしょ、と彼女も助手席に乗った。
向かった先は、練馬区関町北の銀嶺荘。大学1回生だった妹が住むアパートだった。妹は2階の東側。僕は空いていた1階西側の部屋だった。
妹、香代子について少し話そう。妹は足利女子高校を卒業後、大学受験のために上京していた。中学時代は僕のあとから極真空手道場に通い、その生まれついての運動神経の良さから、飛び級しながらみるみる強くなっていった。部屋には「明日のジョー」のポスターが飾ってあった。上京後は一浪を経て、明治大学法学部に合格。また、舞台女優を目指し、野田秀樹の夢の遊眠社と鴻上尚史の第三舞台を併願。ともに3次試験まで残るが、夢の遊眠社の合格が決まると、第三舞台の結果を待たずに、念願の入団を果たした。
僕の仕事は西新宿にある卒業アルバム制作の孔文社に決まった。西武新宿線で慣れない満員電車に揺られながら新宿まで通った。西新宿のオフィス街を、スーツを着て毎日往復する自分自身に、初めはとまどった。 仕事は、営業兼カメラマンとして、営業車で練馬区内の中学校を回った。営業としてのビジネスチャンスは、1日3回。10時休みとお昼、放課後という先生が教室を離れる時間に神経を集中した。この頃、東京では日教組の勢力が強く、意識も革新的で業者変更は容易なことだった。
この学習教材営業のビジネスモデルは、2ステップセールスだった。データベースは、高校受験を控える中学2、3年生の住所録。会社から支給されたリストを元に、まずは実力テストによる学力診断を訪販する。これがフロント商品である。5教科で二千円、お手頃価格である。受験者は、答案用紙を本社へ郵送。診断結果が出ると、営業は両親の揃う時間帯でアポをとり、両親と子供の前で分析結果を解説する。しかし、どんな秀才でも、必ず弱い教科はあった。その弱点を指摘すると、親子揃って不安になる。そこで、やる気があるなら、いい勉強方法を紹介する、真剣に聞きますか、とトークする。親の同意を得ることが重要である。そこから、本来の商品である家庭学習用教材一式のプレゼンテーションが始まる。一式18万円。僕は先生になりきった。なかには安達先生に直接教えて欲しいといいだす家もあった。商品の完成度も高く、かなり売れた。
巡回エリアは足利に限らない。だから、免許停止処分がきた時点で、恐縮しながら退職を申し出た。ところが、上司からかえってきたのは、山のような住所録だった。観念して、自転車で営業を続けた。しかし、これがかえってインパクトになった。わざわざ、足利から自転車で駆けつけてくれる先生、と解釈され、どの家でも好意的に迎えられた。
僕は桐生市まで自転車で通った。たまたま初めに訪問した家が占いを商売としており、この店主である父親とウマが合ったのだ。この父親は育成会の役員をしており、紹介を得て、桐生地区で大金星を上げることになった。このときの販売キャンペーンで、全国上位入賞まで果たした。
僕は同僚には、次の賞与を頂いたら上京することを明かしていた。これが失敗だった。上司の耳に入り、真意を問われた。
「僕は、役者をめざすために、東京に行きます。」
その言葉に、上司から失望の色が見てとれた。僕は、賞与月をもって退職した。けれども賞与は、支給されなかった。
いよいよ明日の朝が引越しというので、洋子が手伝いに来てくれた。大した家具があるわけもなく、準備はすぐに終えた。二人とも、二人のこれからについて、話さなかった。いや、話せなかった。何も約束できることなんて、なかったから。
これでもう洋子とはずっとお別れになるのかもしれないと、僕は思っていた。
きっと彼女も同じように思っていたのだと思う。その晩、彼女は自宅に帰ってはくれなかった。
翌朝、叔父から借りた軽トラックにわずかな家財を詰め込み、僕は東京へ向かった。人手がいるでしょ、と彼女も助手席に乗った。
向かった先は、練馬区関町北の銀嶺荘。大学1回生だった妹が住むアパートだった。妹は2階の東側。僕は空いていた1階西側の部屋だった。
妹、香代子について少し話そう。妹は足利女子高校を卒業後、大学受験のために上京していた。中学時代は僕のあとから極真空手道場に通い、その生まれついての運動神経の良さから、飛び級しながらみるみる強くなっていった。部屋には「明日のジョー」のポスターが飾ってあった。上京後は一浪を経て、明治大学法学部に合格。また、舞台女優を目指し、野田秀樹の夢の遊眠社と鴻上尚史の第三舞台を併願。ともに3次試験まで残るが、夢の遊眠社の合格が決まると、第三舞台の結果を待たずに、念願の入団を果たした。
僕の仕事は西新宿にある卒業アルバム制作の孔文社に決まった。西武新宿線で慣れない満員電車に揺られながら新宿まで通った。西新宿のオフィス街を、スーツを着て毎日往復する自分自身に、初めはとまどった。 仕事は、営業兼カメラマンとして、営業車で練馬区内の中学校を回った。営業としてのビジネスチャンスは、1日3回。10時休みとお昼、放課後という先生が教室を離れる時間に神経を集中した。この頃、東京では日教組の勢力が強く、意識も革新的で業者変更は容易なことだった。
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