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安達和悦物語


2 幼年期 青かった  


 さか児で難産。へその緒が首に巻きつき息は無く、肌は青紫に変色していた。産婆さんの努力の甲斐あって、一気に泣き出したという。ガガーリンが『地球は青かった』の名言を残した昭和36年(1961年)に僕は生まれた。5月5日、母の故郷の邑楽町、母子健康センターでのことだった。
「ただじゃ、死なん子だよ。」産婆さんの言葉は、後に母から聞かされた。

 家は足利で自転
車店を営んでいた。
盆栽と動物が趣味の七郎じいちゃんと、講談が好きな花子ばあちゃん、父の姉と弟、母と僕とが、小さな店舗付住宅に同居していた。物心ついたとき、すでに父は上野に単身赴任しており、久しぶりらしい帰省に、ああ、この人が僕の父親なんだ、と思った。4歳くらいの頃だと思う。八幡様のお祭りでは、父は司会をしていた。

 家では、小鳥や犬や猿を飼っていた。僕は一度だけ、猿と散歩した。犬のように首輪と紐をつけ、ちょっと得意げに一人で連れ回そうと思った。ところがじいちゃんの時と違って、思うように動いてくれない。無理に引き回していると、散歩の途中で猿が唸りだした。赤い歯茎をむき出しにして、僕を憎らしげににらんでいる。猿だから、ワンとは吠えない。しかし、ウッキーとも言わず、いきなり僕に噛み付いてきた。幼児の僕は、パニックだ。しかし、紐を手放すわけにも行かず、ギャンギャン噛み付かれ足首を血だらけにし、噛み付く猿を払いのけようと、焼けた鉄板の上を跳ねるような足取りで、半べそで家にUターンした。こいつとは、もう二度と散歩することはなかった。

 僕は一人で、よく遊んだ。たぶん、男の子はみんなそうであるように、僕もまた、いろんな実験をしてみた。目を閉じたまま三輪車でどこまで行けるか。僕の場合、約20mでドブに落ちた。スーパージェッターの流星号は、どこまで頑丈かプラモデルで試した。路上の小さなどろ山の中に潜ませておき、通行車が轢くのを道の脇でドキドキしながら見ていた。通行後、泥の中を探ると、無敵の流星号はつぶれていた。現実はドラマと違うと思った。マグマ大使の腹から、ミサイルは本当に発射されるか。おじいちゃんにプラモデルのお腹を割ってもらった。腹のなかは空洞だった。もちろんミサイルは発射されない。お腹の切り取られたマグマ大使は、なんだかとても頼りない感じがした。ずいぶんたくさんのプラモデルが、実験台になっていった。
 また、ソノシートが大好きだった。宇宙少年ソランなど大好きなテレビアニメを母に買ってもらい、一人で絵本を見ながら、ドラマ仕立ての朗読劇を毎日聞いていた。そのうち、粘土でキャラクターをこしらえては、一人で物語を作った。
勧善懲悪と決まっていた。

 僕が4歳のとき、妹の香代子が生まれた。動物のぬいぐるみが大好きで、リカちゃん系の人形は怖いと言って、欲しがらなかった。現在の新日本プロレスの所属レスラー40名を超える数のぬいぐるみを使って、僕は香代子によく戦いのドラマを見せた。アニメ、タイガーマスクの影響である。その日の戦いに勝ち残ったぬいぐるみだけが、香代子に抱っこして寝てもらえる特権を得た。

 幼稚園はいじめっこが嫌で、途中でやめた。男の子とうまく遊べなかった。そのつけは、転校後の僕に襲い掛かることになる。

 小学3年生のとき、物語の続きを創作する国語の授業があった。空想でお話を書くことが、とても楽しいことだと知った。大谷サクイ先生の勧めで、僕は毎日のようにお話を書くようになった。いつもお昼の校内放送や道徳の時間を使って、学校やクラスで発表していた。級友達が続々登場する僕の書いた物語を、友達は楽しそうに聞いてくれた。

 小学校4年生のとき、父の仕事の都合で山辺小から毛野小に転校した。当時、毛野地区は僻地と呼ばれていた。僕が編入された4組は荒れていた。正義感の強い僕は、女の子をからかう男子が、弱いものいじめをしているように見えた。今なら好意の裏返しと思えることも、まだ幼い僕には、いじめにしか見えなかった。彼らに立ち向かうたび、返り討ちに合った。強くならなければ、と思った。当時、空手バカ一代というテレビアニメが、人気を呼んでいた。僕なりの一大決心。
「空手しかない。」その決意が出会いを呼んだ。


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