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| 5 | 受験時代 | バイク |
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足利高校の自由な校風が好きだった。同級生も先生からも、過度な干渉もない。校則もゆるく、かと言って他人に迷惑をかけるようなことは、誰もしなかった。
僕は当時、父親がバイク店を始めていたので、許可申請をして二輪車の運転免許を取得していた。朝寝坊すると、バイクで慌てて学校へ行った。と言っても、通学は遠方の生徒以外、原則自転車なので、バイクは学校近くの総合グランドの木陰において、校舎まで走った。
2年生のとき、大平町の青少年自然の家で開催されたリーダーシップ研修会に、学校を代表して数名と共に参加した。県内各校の部活や生徒会の長が集まり、グループ活動で発表した。僕の発表に、会場内
はどっと沸いた。受けるのだ。別に落語し
てるわけでもないのに、さりげない冗談が
ツボにはまるというか。お陰で、それまで
硬いムードだった発表の場が、発表者みんなが競って聴衆を楽しませようという柔らかい雰囲気になった。
落語をやるようになってから、笑いは人の和の潤滑油だと思うようになっていた。その話しぶりが、きっとみんなの共感を得たのだと思う。
「安達、すげえなあ。お前、もてるなあ。」と冷やかされた。
数日間の研修が終わり、いよいよさよならのとき、僕の学生服のボタンは、記念にと請われて交換し、すべてなくなってしまった。冷やかされたのは、たいていボタンは異性から求められるものだからだ。
「そ、そんなことないよ。」苦笑いしながら、男連中にとられたことを、僕は伏せた。
家は当時、中古のバイク店として繁盛していた。リサイクルという言葉が世に出る前の、北関東における二輪中古車販売店のさきがけだった。高校も3年になると、進路の選択が目先に迫ってくる。僕は、母から家業を継ぐようにと、毎日のように泣きつかれていた。
「和悦よ。大学なんか、行かないでおくれよ。お前が行ってしまったら、家はどうなるか・・・。」
母の不安は、父に対する不信からくるものだった。父は、朝から晩まで、いや深夜まで働いていた。商売のスタイルは、中古のバイクを業者仲間や学生から買取り、また仲間に売って回るというものだった。昼間は店売りをし、陽が落ちるとトラックにバイクを積み込んで、東京の上野から栃木の宇都宮まで往復し、売り買いをしていた。帰宅はいつも2時、3時で、夫婦としての会話の時間もなかった。母は寂しかったのだと思う。
僕が受験のための勉強をしていると、毎晩のように僕の部屋に来ては、いかに父があてにならないか、ときには泣きながら愚痴をこぼしていった。
僕はときおり、普段飲まない酒を買ってきては、母に勧めたりした。少々うんざりしながらも、話し相手になった。徐々に学業への熱も冷め、勉強の時間を母にとられても、別にどうとも感じなくなっていた。
それでも、同級生の大部分が大学を受験するのにならい、僕も大学をめざした。勉強へのモチベーションもあがらぬまま、高望みの受験に失敗した。
内心、一浪ぐらいはなんとかなるだろうと、たかをくくっていたのだが、店を僕にもやらせることで、両親の思惑は一致した。僕はと言えば、もう1年も受験勉強する熱意はなかった。結局このとき、僕にもっと強い目的意識があれば、その後の人生は大きく様変わりしていたに違いない。けれども僕は、さして将来を考えることもせず、自分にとって一見、楽に見える道を選んだ。
さえない受験シーズンは終わり、笑顔で卒業証書を手にする同級生を尻目に、僕は高校を卒業した。
当時、バイクメーカーの本田技研工業は、二輪車の整備技術の普及のため、自転車店などの子息を、ホンダの整備工場で2年間研修させるホンダSF留学制度を実施していた。SFとは、僕の好きなサイエンスフィクション(SF小説)のことではなくて、ようするにサービス工場のことだった。留学というからには海外に行けるのか、とシャレに思った自分を悔やんだ。僕は、埼玉県のホンダSF大宮工場に行くことになった。国道16号線と17号線が交差するあたり、大宮市の三橋というところにアパートを借り、初めての一人暮らしが始まった。大宮駅の西口は、まだ片田舎の風景を残していた。
僕は当時、父親がバイク店を始めていたので、許可申請をして二輪車の運転免許を取得していた。朝寝坊すると、バイクで慌てて学校へ行った。と言っても、通学は遠方の生徒以外、原則自転車なので、バイクは学校近くの総合グランドの木陰において、校舎まで走った。
2年生のとき、大平町の青少年自然の家で開催されたリーダーシップ研修会に、学校を代表して数名と共に参加した。県内各校の部活や生徒会の長が集まり、グループ活動で発表した。僕の発表に、会場内はどっと沸いた。受けるのだ。別に落語し
てるわけでもないのに、さりげない冗談が
ツボにはまるというか。お陰で、それまで
硬いムードだった発表の場が、発表者みんなが競って聴衆を楽しませようという柔らかい雰囲気になった。
落語をやるようになってから、笑いは人の和の潤滑油だと思うようになっていた。その話しぶりが、きっとみんなの共感を得たのだと思う。
「安達、すげえなあ。お前、もてるなあ。」と冷やかされた。
数日間の研修が終わり、いよいよさよならのとき、僕の学生服のボタンは、記念にと請われて交換し、すべてなくなってしまった。冷やかされたのは、たいていボタンは異性から求められるものだからだ。
「そ、そんなことないよ。」苦笑いしながら、男連中にとられたことを、僕は伏せた。
家は当時、中古のバイク店として繁盛していた。リサイクルという言葉が世に出る前の、北関東における二輪中古車販売店のさきがけだった。高校も3年になると、進路の選択が目先に迫ってくる。僕は、母から家業を継ぐようにと、毎日のように泣きつかれていた。
「和悦よ。大学なんか、行かないでおくれよ。お前が行ってしまったら、家はどうなるか・・・。」
母の不安は、父に対する不信からくるものだった。父は、朝から晩まで、いや深夜まで働いていた。商売のスタイルは、中古のバイクを業者仲間や学生から買取り、また仲間に売って回るというものだった。昼間は店売りをし、陽が落ちるとトラックにバイクを積み込んで、東京の上野から栃木の宇都宮まで往復し、売り買いをしていた。帰宅はいつも2時、3時で、夫婦としての会話の時間もなかった。母は寂しかったのだと思う。
僕が受験のための勉強をしていると、毎晩のように僕の部屋に来ては、いかに父があてにならないか、ときには泣きながら愚痴をこぼしていった。
僕はときおり、普段飲まない酒を買ってきては、母に勧めたりした。少々うんざりしながらも、話し相手になった。徐々に学業への熱も冷め、勉強の時間を母にとられても、別にどうとも感じなくなっていた。
それでも、同級生の大部分が大学を受験するのにならい、僕も大学をめざした。勉強へのモチベーションもあがらぬまま、高望みの受験に失敗した。
内心、一浪ぐらいはなんとかなるだろうと、たかをくくっていたのだが、店を僕にもやらせることで、両親の思惑は一致した。僕はと言えば、もう1年も受験勉強する熱意はなかった。結局このとき、僕にもっと強い目的意識があれば、その後の人生は大きく様変わりしていたに違いない。けれども僕は、さして将来を考えることもせず、自分にとって一見、楽に見える道を選んだ。
さえない受験シーズンは終わり、笑顔で卒業証書を手にする同級生を尻目に、僕は高校を卒業した。
当時、バイクメーカーの本田技研工業は、二輪車の整備技術の普及のため、自転車店などの子息を、ホンダの整備工場で2年間研修させるホンダSF留学制度を実施していた。SFとは、僕の好きなサイエンスフィクション(SF小説)のことではなくて、ようするにサービス工場のことだった。留学というからには海外に行けるのか、とシャレに思った自分を悔やんだ。僕は、埼玉県のホンダSF大宮工場に行くことになった。国道16号線と17号線が交差するあたり、大宮市の三橋というところにアパートを借り、初めての一人暮らしが始まった。大宮駅の西口は、まだ片田舎の風景を残していた。
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