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安達和悦物語


4 高校時代 落伍  


「毎度、バカバカしいお笑いを一席。」
 足高落語研究会の活動として、3年間、近隣の高齢者学級を慰問に回った。桂米朝のレコードを何度も聞いて、拙い大阪弁で『宗徳院』を覚えた。若旦那が一目ぼれした女性を、店子が探し回る話だ。僕は初恋の人を想い、演じていた。けれども本当は、人を恋する胸の焼けるような切なさも、身を削り取られるような別離の悲しさも、まだ知らなかった。
 店に来る大人同士のやりとりを聞いていたせいか、幼い頃から大人びた言葉をよく使い、家族や親戚から「こまっちゃくれ(おませ)」などとよく言われた子どもだった。物怖じせず、むしろ人前で話すことが好きだった。

「実は先日、あると
ころで演じさせてい
ただき、まったく笑っ
ていただけないとき
があったんです。あ
あ、まだまだ勉強が
足りないな、と思い
ながら、そこの老人
学級長さんに訊い
てみました。」
 僕の枕話である。上野の寄席で仕入れ、アレンジして使っていた。
「学生さん、気を悪くしないでください。実は、お話は十分おもしろかったのですが、ここにいる半分の人は、もう耳が遠くて、お話が聞こえないのです。」
「では、残りの半分は?」
「お話は聞こえるのですが、笑うだけの元気がないんです。」
 老人学級に通ってこれるだけの元気なおじいちゃん、おばあちゃんは、この枕で笑い転げた。一度笑いほぐしてしまえば、こっちのものだ。慰問会はいつも盛況だった。
 東毛地区の高齢者学級に、毎年同じ挨拶をされる学級長がおられた。そのおじいちゃんは、最後の挨拶で、必ず僕らに「立派な落語家になってください。」と言われた。この言葉に、僕らはいつも困惑した。

 足利の旧織姫公民館で公演したとき、新聞記者が取材に見えた。3年生になり部長になっていた僕は、その取材で落語の効能について語った。記事が掲載されて驚いた。僕が語ったはずの内容が、まったくそのままの文脈で、「・・・と顧問の篠崎先生は語った。」とまとめられていた。僕はそのときから、新聞記事を疑うことが習慣になった。
 このときの公演には、足利女子高の女生徒も見にきてくれていた。名を斎藤さんといった。彼女は落語の面白さに目覚めたのか、自ら足女で落語研究会を立上げてしまった。

 その斎藤さんを連れてきてくれたのは、僕の初恋の人だった。彼女とは中学1年で同じクラスになり、一緒に学級委員をやっていた。2年で別クラスになってからも、友人関係の悩みを手紙で相談された。小柄で色白の、フランス人形のような美少女だった。
 中学の卒業の日、僕は彼女を公園に誘いだした。僕のはじめてのデートだ。

「あの、好きな食べ物は何ですか?」
 今なら、小学生のデートでも言わないような幼い質問をいくつかして、これからも友達でいて欲しいことを告げた。恋人として付き合って欲しい、などとは到底言えなかった。緊張のひとときは、十数分で終わった。

 高校生となり、彼女とは電話で話したり、ときどきグループで遊んだりした。高校1年のときに足高と足女の交歓会があり、クラス同士のフィーリングカップル(お見合い)ゲームで、彼女とカップルになった。「天にも昇る思い」とはこのことをいうのだろう。恋物語としては、劇的に発展するはずだった。
 ある日のこと。いっこうに進展しない恋の行方を打開しようと、僕は勇気を振り絞って彼女に電話した。僕はひとしきり自分の想いを打ち明け、次の休みの日に会おうと言った。
「はい、わかりました。姉にそう伝えておきます。」
 おいおい、妹の声が本人にそっくりだなんて、そりゃ反則だよお、と思った。相手に返す間もないほどの勢いだったのか、それとも妹さんがいじわるなのか。とほほ。

 次の休日。その彼女に誘われ、彼女の友人の家に遊びに行った。そこでどんなことがあったのか、もう覚えていない。
 僕はその帰り道、渡良瀬川の川原を一人で歩き、草むらに投げ捨てられていた大きな正方形のガラス瓶を見つけた。そして、その瓶を空中に投げ上げ、思い切り拳で砕いた。雲ひとつない青空の下、陽を浴びた水色のガラスの破片が、スローモーションのように、きらめきながらゆっくりと宙を舞った。僕の心の中で、何かが一緒に砕けた。右手は赤く染まった。ガラス瓶を拳で砕けば、切り口で手が傷つくのは当然である。僕は右手小指の付け根を5針縫った。それでも、川原の葦はおだやかに揺れていた。高校2年の誕生日のことだった。


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