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安達和悦物語


21 夢回帰線時代4 プレゼント  


 これで、旗揚げ公演をあきらめるわけにはいかない。小道具は、団員が手分けして家に持ち帰った。
 稽古は、また足利の勤労青少年ホームで行なうようになった。使用できる時間は限られていた。でも、公演までにもっと時間が欲しい。必然的に、稽古の回数が増えた。足利が使用できないときは、仕事で出入りしていた邑楽町の中央公民館をお借りした。邑楽町では、主にジャズダンスのレッスンを行なった。団員の紹介で、伊藤美枝子先生の指導を頂くようになった。

 最初は週に2日だけと言って始めた演劇活動が、公演日が近づくにつれて、3日、4日と増えていった。それだけ、帰宅の遅い日が増え、妻の口数は少なくなっていった。

 稽古は大詰めを迎えていた。台本作成、舞台美術、選曲、演出、そして役者を僕は行なった。劇団員は手分けして、衣装制作、音響、チケット売りを行なった。劇中の歌の作曲は、僕の同僚で大泉三洋に出向していた有栖川さんが担当した。彼女はシンガーソングライターを目指していた。作曲はお手の物だった。宣伝用チラシは、同級生のイオナ四恩がデザインした。徐々に準備は整っていった。
 けれども、ただ一つ不安があった。照明を仕込み操作できるスタッフがいなかった。業者に依頼すれば簡単に出来たかもしれない。だが、それだけの予算はなく、みんなボランティアで参加していた。

「安達さん。私の会社の先輩に、劇団をやってる人がいて、訊いたら手伝ってくれるというんですけど。」
 入団当時、高校3年生だった最年少のかおりちゃんが言った。就職先の病院の先生が、応援を申し出たのだと言う。すぐにお願いした。
 照明機材は、同級生から紹介された丸茂電機の営業マンから、引き上げ品を譲り受けた。その他は、業務用ケチャップ缶に穴を空けて、電球を仕込んだ。

 公演会場は、足利勤労青少年ホーム。照明の仕込みに必要な電気を、屋外の電柱から引き込むため、本番前日に窓を開け放し、そこから電線を通さねばならなかった。窓に鍵をかけないという事実を、ホームは規則によって許すわけに行かなかった。僕は前日に仕込まなければゲネプロができないことを、必死になってホームの館長に説明した。
「安達君、わかったよ。その代わり、責任を持って、盗難などの事故の無い様、最大の注意を払ってくれ。」
 田口館長はそう言って、僕らを応援してくれた。

「どうも、星野です。」
 少しはにかみながら、長身の男は現れた。照明を担当してくれると言う彼だった。彼も僕らとほぼ同時期に、一家団乱という劇団を結成していた。僕は以前、館林市のホールで、北村想の「寿歌」を上演していた彼らを観ていた。彼はおかまの役を演じていた。異色な役者だと思った。その彼が、今かおりちゃんに連れられて、打ち合わせに来てくれた。
 僕は演出のイメージを慌しく伝えた。彼は、わかった、と言って、すぐに仕込みを始めた。僕は照明に関する全てを彼に任せ、お願いした。公演2日前のことだった。

 昭和62年(1987年)9月、劇団夢回帰線86/91旗揚公演「2030年のコエル」が、昼夜の2回にわたり約200名の観客の前で上演された。同級生マサルを客演に迎えた僕との格闘シーンは、結だけ決めてマジでやりあった。いいミドルキックが、僕の脇に入って、次の台詞を失った。劇中、小道具のライトペンが破損し、ハプニングをアドリブで笑いに変えた。劇団員はみな熱演し、拍手を浴びた。照明は、一夜仕込みとは思えぬ効果を発揮し、見事にドラマを盛り上げてくれた。参加した一人一人が、まさに主役となった。

「ただ、退屈で窮屈。ただ、退屈で窮屈。」
 主人公コエルの独白は、その後、観客であった女子高生の間で、授業中の流行語になったと聞いた。

 公演終了後の挨拶時、拍手の中で、一人の見知らぬ男性から、僕は花束を頂いた。10khzグループの半田社長だった。僕らはその彼から、大きなプレゼントを頂くことになる。


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