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安達和悦物語


33 夢回帰線時代16 バブル  


 昼は広告制作、夜は演劇の稽古という毎日が続いていた。
 また、月刊みにむでは、人物取材の他に、若者の悩みに僕が答える「安堂達也の熱血人生相談」というコラム記事が連載開始され、人気を集めた。僕は広告会社勤務の他に、稽古指導、戯曲執筆、ミニコミ誌連載2本を抱え、稽古と食事、風呂以外はワープロにへばりつく毎日だった。さらに。
「安達君、また何か若者受けする企画ない?」
 みにむの野村編集長だ。
「野村さん、以前ピープルで取材した高校生の女の子いたでしょう? 彼女は今、芸術短大にいってるんだけど、結構面白い文章書くんですよ。彼女に連載エッセイ書かせてみたらどうですか?」
「うん、面白いかもしれないねえ。いいよ。でもさあ、文章は最後まで安達君責任持ってくれない?」
「へっ?」

 そういう訳で、僕の校正責任付きでペンネーム水沢麗、本名岩井田真理による連載エッセイ『水沢麗のDear Heart』がスタートした。94年10月のことだった。
 彼女の文才と着眼点の異能振りは、劇団内で回し書きしていた稽古日誌から注目していた。また、読書量も多かった。彼女ならきっと新しい切り口の文章を期待できるに違いないと思った。実際、ふたを開ければ、彼女は期待に応えていた。ただ、文章が拡散する傾向があり、後半で収集がつかないことがあった。彼女から受け取るフロッピーを開けては、僕は校正し、タイトルをつけてみにむに納品した。

 そんなやり取りを半年も続けたある日、彼女は僕にこう切り出した。「あの、文章直すのやめてもらえませんか?」
「へっ?」
「いつも直してもらって、申し訳ないと思ってるんですが、なんだか、自分の文じゃないような気がして。私、最後まで自分の文体で出したいんです。」
 彼女の自立がはじまった。その後、僕はアドバイスにとどめ、彼女は自分で仕上げて納めるようになった。

 昼の広告制作は楽しい仕事だった。企業のトップに取材し、仲間とブレーンストーミングを繰り返しながら企画。そして、コピーディレクションし、外部のコピーライターに指示出しする。入社当初は、頁物のコピーは外部に出していた。そのための企画書を僕がまとめるのだが、頁構成を企画し、要旨を書き出す。企画書を作る手間を考えたら、さっさと自分でコピーを考案してしまった方が早いと思った。しかし、この企画書制作の作業が、企画力と要約力を身につけるよいトレーニングになった。
 僕が入社して間もなくの頃、『足利百景』という写真と文章で構成されたグラフィック本を編集した。僕は掲載される写真のキャプションや寄稿文のタイトルを制作した。
 また、アンタレススポーツクラブの会員募集チラシでは、スポーツジムに通う家族のショートストーリーを書いた。
 自分の書いた文章が、出版や折込チラシとなって、世に出て行くことがとても楽しく感じられた。

 社内の人間関係も良好で、芸術家肌の若者が独特のムードを漂わせる静かな熱気に社内は満ちていた。
 しかし、バブル経済崩壊の余波は、ジワジワと広告の世界にも影響しはじめ、黙っていても仕事が降りてくる時代ではなくなろうとしていた。
 この会社も例外ではなかった。

 僕は営業としての役割が強くなり、昼は営業、日が暮れて広告企画、そして、稽古の終わり頃、稽古場に滑り込むようなことが多くなっていった。


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